「子どもはみんな純粋だ」という言い方をよく耳にすることがありますが、それは本来は純粋なはずの生き物である、というのが正解であって、子どもがみんな「純粋に生きている」とは限りません。
いや、むしろ純粋に生きている子どものほうが少ないかもしれない、とさえ私には思えます。
悲観的な考え方に聞こえるかもしれませんが、関心のある方はどうぞおつきあい頂きたい。
不快に思う方は遠慮なく、途中で読むのをやめて頂ければ幸いです。
繰り返しますが、子どもの感性は「本来は」純粋だと思うのです。
純粋であるが故に、感受性が鋭い。
大人が感じている以上のことを強く感じているし、感じたことを、大人の何倍も重く受け止めるのでしょう。
特にそれが親から感じたことならば尚更です。
子どもは基本的に親に育ててもらわないと生きていけないわけですから、根本的な部分では親に逆らえないのです。
もちろん、表面的にはいくらでも逆らいます。
「反抗期」と言われる時期もあるし、ある程度逆らわなければ自我が育ちません。
しかし、それもある程度の範囲を決して越えないように逆らっているわけです。
親に見捨てられないように、慎重に間合いをはかりながら逆らっています。
たとえば、親が何らかの宗教や教育思想、政治思想などに強く傾倒しているとしたら、子どももやはり、その思想の範囲を越えない範囲でしか生きられないのです。
あくまでもその範囲の中で逆らい、その範囲の中で自由を求めます。
仮に親が子どもにその思想を押し付けることなく、「自由な思想を持っていいのだ」と言って聞かせたとしてもです。
そもそも、親はその思想の範囲の中で生きているわけですから、その思想の外側の世界を知りません。
だから子どもが外側に出てしまったら、本当はとても困るのです。
恐くて仕方がありません。
子どもはそのことを強く察していますから、なんだかんだで決して外に出ようとはしません。
逆に「外の世界は危ない」「外の世界は間違っている」と感じるようになります。
そう言い聞かせることで、自分を納得させているのでしょう。
親の思想を正当化しない限り、自分が生きていけないことを感じているからです。
たとえその思想が誤っているもの、反社会的なものであったりしても、子どもは社会よりも親の味方をします。
周りの人がその親の思想の誤りを指摘し、子どもを救い出そうとしてもです。
幼い子供にとっては親との関係が自分の社会であり、直接生命に関わるのは一般社会よりも親だからです。
子どもが虐待されていることを隠したり、虐待されている自覚さえなかったりするのも、そういった理由からですね。
つまり、子どもたちの価値観、考え方、感受性、価値観・・・といったものは、本当の意味で純粋なものではなく、かなり親の価値観の色に染まってできているものだ、ということができます。
だから手放しに「子どもたちの心は純粋だ」と私は考えることができないのです。
近年、「子どもたちの声」「子どもたちの訴え」と称して社会的なメッセージを発信している人達もよく見かけるのですが、結局その背後には大人の影響力、大人の声が潜んでいる、と考えられるのです。
念のために言っておきますが、親が意図的に子どもを利用している、という意味ではありません。
中には明らかに意図して利用している場合もあるし、意図しているつもりがなくても、結果的に利用していることになっている場合もありますが。
ともかく、ほとんどの場合、子どもの言動・思想・価値観というのは、その親のフィルターを通して発せられているもの、と言えると思います。
さて、それはともかく、そういう親の思想、親の価値観というものは、もちろん親個人のものです。
元をたどればそれも、親のまた親の価値観に染まったもので、さらにその親から・・・といった連鎖の結果なんですが、ともかく純粋に本人のものではない、ということは確かでしょう。
従って、本当はその価値観は、自分にはピッタリ合っていないわけです。
サイズが微妙に合わない服を着ているようなもので、本当は「着心地」が悪いのです。
だけどずっと無理をして着続けているせいで、その体や心にだんだんと歪みが生じてきます。
だけどその歪みは、自覚することができません。
自分では気づきにくいようになっています。
自覚することが恐いのです。
歪みがあること、無理をしていることを認めてしまえば、自分を今まで守ってきた親の思想という枠を否定することになってしまいます。
そのため、この歪みを認めるということは、自分の存在そのものを否定するかのような不安、自分が捨てられるかのような恐怖として感じられるようになっているのです。
これはある程度表面的な意識、純粋でない部分の意識が感じさせている不安や恐怖です。
しかし歪みが生じているのは事実で、この歪みは本当の自分、純粋な部分の自分からの訴えなのです。
その訴えは、「本当は着心地の悪い服は脱ぎ捨てたい」と言っているのです。
本来の自分でいたい、と。
その訴えの表れが、例えば不登校、非行といった「奇行」といわれるような行動であったりするわけですが、実は病気もその一つ。
というより、多くの病気はその歪みの表れであるといっていいでしょう。
それは心の病気と言われるものだけでなく、身体的なものも含めてです。
子どもの頃に表れる病気には特にその傾向が強く、原因不明と言われているようなものは尚更そういうものだと思われます。
原因が簡単に解り、医学的に簡単に治ってしまうものであっては、その訴えが聞かれることなく終わってしまうからです。
ついでに言うと、不登校なども「それは子どもの個性だから」とか、「学校に合わない子もいるよ」というように、ある程度認められる風潮もあります。
「おかしいのは学校のほう」という考え方もあるし、ともかくそのようにあまり問題視しない、という傾向も増えているのではないでしょうか。
これは一人一人の個性を認めるという良い面も持っているとは思うのですが、一方では、その背後にある本当の訴えを軽く受け流すことにも繋がりかねないと思うのです。
もしこのような問題を起こしたら、本当は重く受け止め、しっかりと向き合っていくべきなのではないか、と私は思っています。
特にその問題がだんだんエスカレートしていくならば、何か伝わりきっていない訴えがあるのだと考えて間違いないでしょう。
では、その歪みによる病気などの苦しみから解き放たれるにはどうすればいいか?という話です。
これは一言二言で言えるほど簡単なことではない、という前提で捉えて欲しいのですが・・・
まず第一歩としては、自分自身が今まで親から受け継いできた「枠」の内側よりも、外側のほうがもっと広いのだ、という事実を知る事だと私は思うのです。
外側のほうがもっと自由で、安心で、楽しいのだということを体感していくことです。
ただ、これはいきなりできる事ではありません。
一歩ずつ今までの自分から踏み出していく中で、「あれ?自分は今まで狭い世界に閉じこもっていたのではないか?」ということを実感し、自分はもっと色んなことができるのではないか、と可能性を感じていくことです。
「人間の能力は、本当に持っている能力のうちの数%しか使われていない」という理論を聞いた事がある人も多いでしょう。
そのことを実感として感じてみることです。
「自分にはこんなことが出来る」「自分にはこんな面がある」「こんなことに喜びを感じる」「こんなことを楽しく感じる」・・・というように、自分の世界を広げていくことだと思うのです。
そうしていくことで、親から受け継いだ「着心地の悪い服」を脱ぎ捨てる恐さが薄れていくのです。
もっと着心地がよく、自分に似合ったゴキゲンな服があることに気づくからです。
繰り返しますが、実際には、こうして文章で書いたように簡単なことではありません。
その恐怖心というのは、とてもしつこい油汚れのように私達の心の壁に染み付いていますから、簡単には取れてくれないものです。
一進一退、時には大きく後退したりもしながら、徐々に徐々に本当の自分が顔を出してくるようになるのです。
最後に、宣伝のようで恐縮ではありますが、「健康塾」を名乗っている当塾が「願望実現法」というようなものを扱っているのも、このような理由です。
現在の自分を越えるための実際の「行動」を通して、自分の枠を広げて行く訓練です。
これは、いかがわしい成功メソッドなどとは違い、心と、そして体を真の健康に、自然体に戻していくための一つの道筋として捉えていただき、実践していただければ幸いです。