たとえば、ずっと気になっていた研修会に参加することになったとします。
気になっていたんだけど、だけどちょっと不安もあって。
自分には向いていないんじゃないかな?とか、研修内容についていけないんじゃないかな?とか。
だけど、勇気を振り絞って申し込んで、ようやくその日を迎えたとします。
ところが、その日会場に向かう途中で、交通事故にあってしまったとします。
事故そのものは大したことはないんですが、事故処理に時間がかかって、研修の開始時間には遅れてしまいそうです。
気持ちも動揺しているし、研修は欠席しようかな、と・・・
そして、こんなふうに考えます。
「よりによって、研修当日に事故にあうとは、これはきっと『天の声』だ!『運命』だ!
今日の研修には行かないほうがいいんだ!」
一見、交通事故という嫌な出来事を、いい意味に転換する積極的な考え方のように思えるかもしれません。
だけど一方では、事故にあって、遅れてでも研修に参加することで、もしかしたら何か凄い収穫があるかもしれません。
その可能性を投げ捨てている態度でもあります。
占いや精神世界系のことが流行るようになって、この前者のような考え方をする人は多いような気がします。
あちこちで「天の声」とか「潜在意識からのメッセージ」とか、「神様の声」とか、そういう表現を見聞きすることが多いです。
私はそういう系統のものに対して批判的な態度を取る事も多いんですが、それは別に、ただ単に好き嫌いで批判したいわけではないんです。
本来、そういうものは自分の可能性や考え方の選択肢を広め、心身を豊かに、そして丈夫にしていくために用いられるべきです。
だけど知らず知らずのうちに、「天の声」とか「宇宙の法則」とかによって、自分を縛り付けている人の何て多いことか。
暦とか、方角とか、画数とか、色とか、言霊とか・・・そうした枠組みの中でしか選択できないのだとしたら、それは実に不自由で、自分というものがない、芯の無い生き方なのではないでしょうか。
様々な悪条件があろうと、それを乗り越えていく。
むしろ本当に望むものには、壁が立ちはだかっていることが多いものですよね。
『運命』を切り開いていくのは、それを乗り越えていく人なのではないでしょうか。