何か大きな失敗をした時とか、物事が思うように運ばなかった時、つらいことがあった時・・・
そんな時には前向きに物事をとらえて、
「この失敗には意味がある」
と考えるようにして、その失敗や苦しみを受け入れる・・・
というような考え方があります。
しかし私はいつも思うんですが、その時に考えた「意味」なんていうものは、本当に正しい意味なんでしょうか?
その場で判ってしまうような、単純な意味なんでしょうか?
簡単に言葉で「こういう意味だ」とか、「こういう理由で、必要な経験なんだ」とか説明がついてしまうような、軽いものなんでしょうか?
そんな軽い意味のために、苦しい思いをしたんでしょうか?
むしろ私は、あっさりその意味を結論づけようとしている人を見ると、
その苦しみを、軽く終わらせてしまおうとしているように見えるんです。
「この苦しみにはこういう意味があることが判ったから、もう避けて通っていいんだよ」と、言い訳をしているようにも見えます。
「今の自分は、過去の経験の結果だ」という考え方があります。
だけど今日、自分が経験した出来事が、いったい何年前の、どんな出来事の結果なのか…なんていうことは誰にも判らないものです。
『いつの出来事がいつに結びつく…』なんて、直線的に過去が現在に結びついているわけではないですよね。
おそらく、様々な時期の様々な経験の中から抽出されたエキスが複雑に絡み合って、今の自分につながっているのでしょう。
だとしたら、今の苦しみや今日の失敗が、将来何の役に立つかなんて、今の時点で決められることではないはずです。
いや多分、いつになっても、本当の答えなんて出てこないと思うんです。
だけど間違いなく、今の経験のエキスは、未来の様々な場面で、色んな形でにじみ出ているはずです。
その本当の答えなんていうものは、私達の頭で考えられることの何倍、何十倍もの壮大なスケールを持ったものなんだと思います。
とても私達の言語では表現できないレベルのものなんでしょう。
それを簡単に、瞬間的に判るレベルの「意味」で切り取ってしまうことは、その失敗の価値を何十分の一にも縮小してしまうことになるように思います。
だから私は、今日の失敗を、今の苦しみを、そんな小さな枠に閉じ込めず、理屈っぽくその意味を考えるのではなく、体全体で感じるほうを選択したいと思うんです。
苦しいときには苦しみ、時には悔やんだり、怒ったり、泣いたりもする。
全身で味わえば味わうほど、その経験は体・心の奥にまでたっぷりとしみ込むはずですから。