体のこと、心理的なこと、それから教室の参加について、整体の学びかた・・・など、いろいろとアドバイスを求められることがあります。
見ず知らずの人のいきなりの質問には答えられないことも多いですが、整体や講座で直接ご縁のある方には、できるだけ真剣にお答えしたいと思っています。
というのは、答えるにも責任があるからです。
逆に言えば、質問する側の人にも、ご自分の質問に対する責任を持って頂きたい、そう思っています。
尋ねるからには聞く。
返ってきた答えについては、真剣に考える。
たとえそれが、自分が好む答えではなかったり、予想していた答えとは違ったものだったとしても。
全く「ピン」とこない答えだったとしても。
なぜなら、自分では答えが出ないから人に尋ねるわけですよね。
だとしたら、自分の好みや予想なんていうものは関係ありません。
好みの答えや予想していた答えというのがあるのなら、いちいち人の頭を悩ませないで、わざわざ人に「答える責任」という重圧を押し付けないで、とっとと自分で思った通りにやればいい、それだけの話です。
それが恐いから、自信がないから、人に確認を取りたくて質問をするんだ、という人もいるでしょう。
でもそういう人は、仮にそれで失敗したとしても、どこかでそれを確認した人のせいにするのでしょう。
むしろ、全く予想外の答えだったり、自分の好みではない答えが返って来たとしたら、それは今までの自分の中にはない、新しい突破口になる可能性が高いじゃないですか。
だけどまぁ、そうは言っても、なかなか予想外の答え、好みではない答えが返って来た時に、それをすんなり受け入れられる人もいないでしょう。
誰でもそういうものには抵抗を感じるのが当然ですから。
変化を望んでいる人であっても、心の奥のどこかでは変化を恐れていたりします。
だから、そんな答えが返ってきても、明るい返事はできないものでしょう。
実際、そういうシーンは何度も経験しています。
私が答えを返すと、何となく分かったような分からないような、
「は、はぁ~、まぁ~、そうですかね・・・」
なんていう、歯切れの悪い返事をしながら、考え込まれてしまうことがあります。
でもそういう様子を見た時に、私は「これで、少しは相手の人の心に種を植えられたかな」と感じるんです。
納得いかない私からの返答は、その人のなかで新たな疑問として残るわけです。
場合によっては不満という形で残ってもいい。
とにかくそれらは時間をかけて、少しずつそれが芽を出していく可能性があるわけです。
良くないのは、どんな答えでも「はい!はい!わかりました!やってみます!」とすんなり返してくる場合。
こういう人って、聞いているようで聞いていないのです。
いわば、答えの丸呑み。
わかったと思った途端、その人のなかでは種が根付かない。
丸呑みして、丸ごと排泄しちゃうパターンですね。
でもまぁ、それでもまだ、その人の体の中を通っているだけマシなんです。
一番よくないのは、望む答え、予想できる答え以外のものはまったく受け入れない人です。
そういう人は返事すらしない、あるいは返事したフリをする。
そして頭の中で、その答えが間違っているという理論を一生懸命組み立てて、自分を納得させてしまう。
中には、答えてくれた相手のあら探しや人格否定にまで及んで、「答えを聞くに値しない」という結論を出す人もいます。
そうやって、その新しい考え方が自分の中に入る事を拒否しているのです。
質問をうまく利用するには、二つのコツがあると私は思います。
その二つは矛盾するかのようですが・・・
一つ目は、どんな答えが返って来ても、それを聞き入れるつもりで尋ねること。
二つ目は、これだけは受け入れられない、という答えがあった時には、たとえ相手に批判されても、周りに何を言われても、自分の考えを貫く覚悟をすること。
そしてどちらについても言える事は、どんな答えであっても、答えてくれたことに対して、心から感謝すること。
そうすることで、上記二つのどちらの場合であっても、自分の中で、その質問と答えが、自分を変えるきっかけとして根付くことでしょう。
「いい答えが返ってき場合のみお礼を言う」ぐらいのレベルの質問は、どんな答えであったとしても、大した力にはならないことでしょう。
「質問する側の責任」というのは、そういう意味です。
決して相手に対しての責任ではなく、自分自身に対する責任です。