時々人間関係についての相談を受けることがあるのですが、そうでなくても、悩みや「ストレス」の元を辿っていくと、人間関係に行く着くことがよくあります。
実際のところ、悩みの大半は何らかの人間関係によるものでしょう。
ではその人間関係を改善するのに当たっては、やはりその相手のことを責めていても何の解決にもならないわけです。
現実的に、その相手と離れるための手段とか、その相手に気をつけてもらいたいことの交渉とか、まぁ色々他にもあるでしょうけど、そういうことを実際に考え、やっていかなければなりません。
それで、とにかくこういう「相談」をしているつもりでいて、実は相手の悪口、相手の批判をひたすらしているだけ、ということもよくあるんですね。
相手はこんな酷いことをしていて、私はこんな辛い思いをしている、と。
こういうことを吐き出すのが「ストレス解消」になる、ということもある一面では言えますが、それで満たされるのは自分の中の「被害者意識」でしかありません。
中には相手に変なあだ名を付けてバカにするような言い方をし始める人もいれば、「あのバカ」みたいな言い方をする人もいます。
身近な人に限らず、たとえば有名人とか、政治家とかを、呼び捨てで呼んだり、名前をもじってバカにした呼び方をする人がいるでしょう。
あれはもう、批判というより悪口ですね。
そういうのは「議論」の場に上がる資格もないといっていいんじゃないでしょうか。
ともかく、こういう話がエスカレートしていくのは、決して建設的ではありません。
相談の場、セラピーの場、勉強の場が、こういう他者の悪口、愚痴、という方向になっていくのは大変まずいことです。
しかし、こういう話を止めようとすればする程、それに対する抵抗も増えていくのです。
逆上して、悪口がエスカレートする人もいます。
後になって、メールなどで反撃をしてくる人もいます。
結局その人は、「相手が悪い」のだと必死に訴えたいだけなのです。
相手がどれほど酷い人物で、悪口を言うに値するか、自分がその人を悪く言うことの正当性を示すのに必死になっているだけなのです。
そして「自分は変わる必要がない」「自分が不幸なのは他人のせいだ」と訴えたいだけなのです。
そう訴えることが、目的と化してしまっているのです。
しかしこういうことは、とても矛盾した暗示を自分に与えているのだということに、気づかなければなりません。
これは逆に、相手に「悪いままでいてほしい」「変わってほしくない」と願っているのと一緒なことなのです。
相手が自分にとって大変都合のいい人に変わってしまうと、もう悪口を言えなくなります。
自分が被害者でなくなってしまいます。
全ての責任を、自分で負わなくてはならなくなってしまいます。
仮に自分が何かで失敗したり、うまくいかないことがあったり、不機嫌になるようなことがあったとしても、もうその人のせいにはできなくなってしまいます。
自分が「か弱い子羊」「かわいそうないじめられっ子」として、周りの人にかまってもらうこともできなくなってしまいます。
もちろん本人には、そんな自覚はありません。
そればかりか、悪口を言っているという自覚すらないのです。
自分が虐げられているという「事実」を客観的に話しているつもりなのかもしれません。
ともかくそういう自分にならないためには、まず相手を責める、という発想を極力やめることでしょう。
相手を責めるということは、つまり「相手を変えなければいけない」という暗示を自分に与えているのと同じことです。
「相手が変わらなければ自分は幸せになれない」と言っているのと同じです。
つまり、自分の幸せは相手次第、他人次第、「自分ではどうすることもできない」という暗示なのです。
そういう暗示を強く自分に与えたまま、「悩みを解決しよう」「幸せになろう」と思っているつもりでも、そして行動しているつもりでいても、それは実現しないことでしょう。
物事の風向きを返るのは難しいですが、自分の向きを変えれば、風向きも変わったと同じです。
自分の立ち位置が変われば相手との距離感も、見える角度も変わってきます。
結局変えられるのは自分でしかありませんから、自分自身がまずできることだけを考えて、それを実行していくしかありません。
不思議なもので、そうしていくとその相手との関係性が変わっていったり、または自然にその相手と離れていったりということが起こってくることが多いです。
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