精神的にも、肉体的にも、ストレスによる疲れというものは、いつも後から出てくるものです。
もの凄くプレッシャーのかかる仕事に取り組んでいる時でも、その仕事の最中は案外平気だったりします。
「気が張っている」とでもいいましょうか、まるで格闘家が試合中に殴られても平気でいられるように、ともかくその最中には無理ができてしまう。
しかしいざその仕事が終わって一段落すると、一気に疲れが出て来て、心も体もヘトヘトになっていたりする。
そして、「自分はこんなにも弱い人間だったのか」なんて落ち込んだりもする。
だけど、疲れが後から出て来るのは当然のことで、それは恥ずかしいことなんかではないと思うのです。
むしろ、脇目もふらずに走り続けてきた中で見落としてきたこととか、忙しさに任せて抑え続けてきた自分の気持ちとか、改めてそんなことを思い出し、浸ってみるための大事な「休養期」だと思うんです。
だけど、人はあまりにも強いストレスを受けると、心身が壊れることを防ぐために、身も心も凍らせてガードしてしまうことがあります。
たとえば、もの凄く屈辱的なことをされたり、言われたりした時とか、傷つけられた時とか。
とてもその屈辱をまともに受け止めることなど出来ず、一時的に物事に対する理解力を停止させてしまうこともあります。
記憶が一時的になくなってしまうとか、目や耳に異常をきたすとかが極端な例です。
そこまでいかなくても、言われたことを全く違う意味に捉えてしまうとか、無理矢理ポジティブな意味に捉えてしまう、というような形で心を凍らせることもあります。
たとえば、明らかに相手が悪いにもかかわらず、もの凄い勢いで怒鳴られて、恐怖心のあまり「自分が悪いんだ」と思い込んで謝ってしまうとか。
激しく自分を侮辱する言葉でさえ、「これは愛のムチだな」とか、「自分を変えるいいチャンスだ、言ってくれてありがとう」と捉えてしまう、とか。
心を凍らせてしまえば、とりあえず傷が痛むことはありません。
打撲の時のアイシングのようなもので、痛みを感じなくなります。
だからその場では平気でいられたりもする。
だけど、だんだん時間が経つごとに、その凍った心が融けてくることがあるんです。
融けてくると同時に、本当は傷ついた心が見えてくる。
あの時は平気だと思っていたけれど、実はボロボロに傷ついていることに気がついたりする。
そして、痛み出してくる。
・・・もしかすると、人生には、凍らせたままにしておいたほうがいいような、大きすぎる傷もあるのかも知れません。
だからそれをどうするかは、その人の心の体力次第としかいいようがありません。
だけど、痛みを解消して前に進みたいと思うのならば、やはりそれは少々痛くても、向き合って、浸っていきながら、そして心の持つ「自然治癒力」に任せながら、自ら傷が塞がっていくのを見守るしかない、と私は思うのです。
場合によっては、長い時間がかかったとしても。
映画のようなきれいな言葉や、現実離れした慰めや、無理矢理なプラス思考なんて、所詮心を鈍らせる「アイシング」にすぎません。
傷を治すためには、血が通わなければいけません。
心だって同じで、時には生々しく泣いたり怒ったりしながら、しっかりと血を通わせていくことが必要なんじゃないかと思うのです。
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