型と体感を通して学ぶ〜体癖

心の癖・体の癖(体癖)

「心の癖・体の癖〜体癖」を知って欲しい理由は、ざっくりと言えば「人との違いを知ること」であり、同時に「自分の本質を知る」ということです。

しかしそう言われても、ざっくりとしすぎて、なんとなくわかるけど、あまりピンとこないのではないでしょうか。
それは良いことのような気がするけれど、あまり身近なこととして、実感としては感じられない、「違い」とか「本質」って、いったいどういうことなんだろう?という話です。

そこで、ある程度の「型」にはめることが必要になります。

型にはめるというのは、人を枠にはめて見るようなことですから、それは逆に、人の本質的な部分を削ぎ落として、平均値を通して見るような見方です。

逆によくないことのように思えるかもしれませんが、あまりに物事が抽象的であると、かえって実態がつかめないものです。

整体法における「体癖論」は、人の心身を、必ず誰もがどこかに当てはまるいくつかの型に分類しました。

必ず当てはまるのには理由があります。
それは誰もが持っている身体の構造のもとに分類されたからです。

骨格や内臓の作りというか、パーツ自体は、基本的にみな一緒です。誰もが同じものを持っています。
実在する、形あるもの、目に見えるの枠の中での分類だからこそ、非常に現実的なものなのです。

なので、その分類の見分けには少々知識と観察力が必要となりますが、必ず「○○のタイプである」という明確な唯一の答え、「絶対解」が存在します。

これが逆に、目に見えないスピリチュアルなものを元にした分類となると、解釈次第、その人の感覚や感性次第で、無限に答えが変わってきてしまいます。

それには良い面もあるのでしょうが、自分の希望次第で答えに色付けをしたり、望む答えを出してくれる人を探し続ける、というようなことも生じてきます。

それでは「本質」にはたどりつけません。
いわゆる「スピリチュアルジプシー」と言われるような人たちに見られる傾向でもあります。

整体法というのは、「気」や「潜在意識」という見えない領域のことを扱いながらも、必ず肉体という目に見えるものの動き、反応、体感といったものとそれらを結びつけるということを行っているものだと考えています。

「体癖」というものも同じです。必ずその人の身体の形状、反応、変化、行動など、「肉体」「形あるもの」を伴うものをもって判断します。

さらに踏み込めば、そうした見えるものに現れる現象が、実は見えない領域(無意識、潜在意識など)に起因すると考えていて、それが身体に現れてない以上は、この物質世界の人間の生活においては、あまり意味をなさないものであると言っても過言ではないと思います。

なのであくまで、「型」と「体感」にこだわるのです。
決してスピリチュアルな領域を否定するのではなく、それが現実の世界に現れて初めて私たちの生活、人生に影響する、という考えです。

「体癖」のことで言いますと、必ず○○型というタイプに、誰しもが当てはまります。
(ただし複数が入り混じっています。)

そしてそのタイプごとに感性も運動能力も違うわけですから、別のタイプの育てられ方をすると、当然その人は生きづらさを感じてしまいます。

たとえば、頭脳労働が得意な「上下型」という人が、ガテン系・体育会系の「ねじれ型」の人たちが集まる場所に行けば、必ずといっていいほど浮いてしまいます。
周りの人と同じようにはふるまえません。

でもそれは劣っているのではなく、ただただ「タイプの違い」であるということです。

このことを知っていると、本当ならば「生きづらさ」で悩むこともなくなれば、自分(あるいは他人)を否定することもなくなるはずなんです。

でもそれは、理屈で知るだけではなくなりません。体感を持って、そして実体としてその違いを感じなければ、実際の行動、言動には現れてこないのです。

※心の癖・体の癖(体癖)については『心の癖・体の癖』PDFテキストでさらに詳しく説明しています。

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