若かりし頃、ある心理学のセミナーに出ていた時の話です。
講義の後半、私は講師に質問をしました。
「今抱えている悩みが、たとえば幼少期のトラウマなどに起因すると考えられる場合、過去の傷を消していくことはできるんでしょうか??」
といった内容の質問です。
講師の方は少し苛立ったような表情で、
「答えを過去に求めるのではなく、今どうするかでしょう?」
というような主旨の回答をされました。
さらに少々厳しい口調で、
「このように、間違った心理学を学んでいる人が非常に多いですね」
というような一言を付け加えました。
少々やり玉に挙げられたようで、悔しいような、複雑な気持ちにもなりましたが、すぐに私は自分の浅はかさを感じ、恥ずかしくなってしまいました。
この日のことは今でもハッキリと覚えているし、自分にとっての教訓にもなっています。
よく言われる表現で、「過去は変えることができる」というものがあります。
本当は過ぎ去ってしまったものだから変えられないはずですが、そこをあえて「変えられるのです!」というような表現手法です。
要するに、過去の事実は変えられないけれど、意味をポジティブなものに変えられる、というような考え方です。
それで、過去のつらい出来事を違う意味に書き換えようとか、過去の感情を処理しようというセラピーなども存在し、成果を挙げることいるようです。
ただ、一方では、そうした自分の過去や生い立ち、幼い頃の経験や人間関係などにこだわるあまり、過去がまるで「足かせ」のようになって、今の自分を変えられなくしている人も、度々見かけるんです。
「私は過去にこういうつらい体験をしているから・・・」という理由で今も苦しんでいるんだ、なかなか解決できない悩みを抱えているんだ、と決めつけているような人です。
「私はこういう境遇で生きてきたから、今の自分はこうなんだ」と決めつけている人です。
口では「だから過去の自分を精算して、今の自分を変えたいんだ」と言っているんですが、自分自身が過去にこだわってしまっているのです。
私は、本当に自分を変えたいのなら、過去がどうであれ、「今から」違う自分への道を歩き出すんだという覚悟が必要なんだと思うんです。
過去をどうこうしよう、というのではなく、違う方向を向いて今日からは歩き出すんだと。
その方向とは、自分が望む自分の姿のことです。
当塾の「願望実現法」とは、そのためにあるんです。
そのため、願望実現法の中では、「今までの自分がこうだから、この程度の目標を持ってみよう」というのではなく、今までの自分に関係なく、やりたいことを描いてみる、行動してみる、という前提で話をしています。
今の境遇を過去のせいにするという考え方の極端なものが、「前世や過去世の因果」というものです。
これに手を出した時点で、もうそれは強烈な暗示を自分自身に与えてしまっているんです。
冷静に考えてみると、本来ならば記憶のない過去世の経験を掘り起こして帳消しにするなんていうのは、幼少期からの経験を消すことの何倍も、何十倍も難しいことのはずです。
いや、現世の過去を解消するのだって大変なはずですよ。
40歳の人なら、約40年積み重ねて来た心の癖や体験を崩していかなければならないことになります。
前世とかになると、さらに前の世で生きた分がプラスですよ。
しかも記憶がない、仮に変化したとしても体感もない。
さらに、前の世が仮にあったとしても、それは時代も違えば価値観も全く違う世界でしょう。
例えば前世で戦国時代、大勢の人を殺した兵隊の一人だったとしましょう。
中には罪も無い人までをも殺してしまい、そのことで大勢の人に恨まれていたとします。
その因果を解消するために、今多くの病や不幸を抱えた人生を送っているのだ、とします。
もしそれが本当だと受け入れるのだとしたら、それは現世の人生を苦しむことで解消することを約束したようなものでしょう?
つまり、自分の現世は、その前世の罪の償いのための「服役」みたいなものだと、暗に認めたことになるわけです。
そんな人生だなんて、認めていいんでしょうか?
また一方では、前世で苦しいことがあり、自ら命を絶ってしまったのだとします。
その無念と悲しみを浄化するために、現世までそれを引きずっているのだという人もいます。
仮にそれが本当だとしても、それは現世を幸せに生きることで浄化できるものではないでしょうか?
少なくとも、「過去世がそうだから今苦しいんだ」と嘆くことではないはずです。
そして、霊能者に魂を鎮めてもらうことでもないはずです。
でも、「前世に原因がある」なんていうのは、一見恐いようでいて、実はとても甘い言葉なんです。
その理由の一つは、「苦しんでいる原因がわかった!」という安心感です。
そしてもう一つは、「今(現世)の自分のせいではなかった」という安心感です。
過去世とはいえ「自分」の問題だという認識と同時に、自分の記憶にはない別の自分だという感覚。
この両者がちょうどいい具合に混ざった感覚というのは、どちらとも取れるようでとても好都合なのです。
便利さや安心感なんていうと、ずるい考え方のように思えて、罪悪感を感じるかもしれません。
だけどそれらは、「前世に起因する」という実態のつかめない恐怖感によってうまくカモフラージュ出来るようになっています。
つまり「自分は不運で、可哀想な立場だ」と位置づけることさえできる、実に便利な考え方なのです。
この甘い罠にとりつかれてはいけません。
取りつかれた人は、どこまでも深追いするようになります。
まるで麻薬のようです。
本当に前世のせいで私は今苦しんでいるんだと、今の自分のせいじゃないんだと・・・
そんな自分を正当化するために、どんどん過去へのこだわりが強くなり、さらには、その証拠を示すために、見えないはずのものまで見たり感じたりするようになってきます。
そういうものは見えるようになるのに、なぜか前だけはいつまでも見えないようです。
過去世のことはともかく、自分の経験した過去の意味が変わるのは、無理矢理意味の「付け方」を変えた時ではありません。
だからいくら過去を振り返ったって、その意味は見えてきません。
ポジティブな要素を過去から探そうとしても、それもなかなか難しい。
それは、未来が変わった時に、自動的に切り替わるようになっているんです。