整体は手で体に触れる技術ですし、その基本となっている「愉気法」は、「手当て」とも言われるように、手をただ当てるだけのものです。
この「人と触れあう」ということも生き物が本能的に行う行為の一つですが、食べる、眠るといったことに比べると、さほど重要ではないように思われがちです。
確かに、人に触れたり触れられたりしなくても生きてはいけます。
食べさせてさえもらえれば、赤ん坊も大きくはなるかもしれません。
しかし、ろくに親に抱かれることもない赤ん坊が、将来どういう大人になってしまうかは、おおよそ想像がつくでしょう。
大人になると、人と体を触れあう機会は少なくなります。
子どもの頃のようにベタベタと親にくっついたり、友達と手をつないだりということもなくなります。
むしろ馴れ馴れしく体に触れられると不快感さえ覚えます。
しかし、何らかの極限状態が訪れると、無意識に触れあうことを求めるものではないでしょうか。
感極まって抱き合うこともあれば、恐怖のあまり人にしがみつくこともあります。
人が亡くなる直前には、家族に手を握ってもらえたり、体に触れてもらえたりすると嬉しいはずです。
こうした究極の時、場合によっては命にかかわる時にこそ、触れあうことを求めるのですから、やはり手を触れる・触れられるということは、命の本質的な欲求といえるのではないでしょうか。
そして私達は、触れあうことで無意識の中に人との信頼関係を培ってきたのではないかと思うのです。
何種類かの動物は、幼い頃に母親の背中に乗せられて生活する中で、生きていく勘を養っていきます。
走り方、ジャンプのし方、木登りのし方などを、親の背中を通して自分の体で体感し、覚えていくのだそうです。
人間に育てられた動物がなかなか野生に戻れない、というのはよく聞く話ですが、それは野生生活のしかたを体で覚えた経験がないからです。
うまく群れに戻れたとしても、一匹だけ体の動きがおかしかったりします。
人間も同じように、親に抱かれたり、おんぶされたりながら、様々なことを覚えているはずです。
試しに誰かにおんぶをしてもらうと分かると思いますが、人の背中から落ちないように体勢を保っているのは案外難しいものです。肩車や抱っこもそうでしょう。
子どもは抱っこやおんぶをされながら、無意識のうちに自分の体のバランスの取り方、身の置き方などを学んでいるのです。
こうした体の使い方、身の置き方というのは、相手との距離感という感覚を育てる上でも重要なものだといえるでしょう。
手をつないで歩くのも、自分と相手の手の長さ・体の大きさという関係性の中で、時と場合に応じてちょうどいいポジション、間合いを取ることを覚えていくはずです。
これはもちろん、心理的な間合いという意味でも同じです。
大人になってからの、社会の中での自分のポジションを見つける能力、相手に応じて臨機応変に対応する能力、挨拶や礼儀作法といったことにも関係してくるでしょう。
ちなみに近年、「抱き癖」を心配して、あまり子どもを抱かない親もいるそうですが、本能に任せて生きている赤ちゃんの時期だからこそ、無意識の教育をしておくべきなのではないでしょうか。
ちなみに、抱っこが足りない子ほど、逆に抱っこを要求する度合が多い傾向があるようです。
もちろん、いつでも抱っこしてあげられるような余裕はないかと思いますが、それは量より質、その集中の「濃さ」の問題です。
たとえ短い時間しかなかったとしても、しっかり気持ちを込めて、全ての意識を赤ちゃんに向けた抱っこをしてみてください。きっと徐々に様子が変わっていくはずです。
これは赤ちゃんに限ったことではなく、大きくなっても、大人になっても、その向けた意識(実際には無意識領域の話ですが)の濃さ次第で、相手との関係性が変わったりもします。
さらに詳しくは愉気法(手当)のDVDや、「気でつながる心理テクニック」のCDなどを参考にしてください。