日曜夜のテレビ番組で、「海外で日本のラーメンが人気だ!」というような特集が組まれていました。
特にニューヨークでは人気が高く、近年ラーメン店がたくさんオープンしているそうです。
その放送の中では、「ラーメンには日本の心が表れている」なんていう、大げさな表現がなされていました。
その表現はテレビ局側によるものというよりは、ニューヨークのラーメン店の側、あるいは現地の評論家たちによってなされていたもののようです。
放送されている内容をよく見てみると、やはり、かなり大げさです。
はっきり言って、形だけ日本のものを真似して、それで「日本の心」とか、「Cool Japan」とか言っているだけのようにしか思えないのです。
たとえば店の構えや、店の名前が日本風だとか・・・
そんなの、当たり前だろう、っていう。
しかも、現地の人の作るラーメンを見てみると、どう見ても作り方が雑なんですね。
「日本の様々な食文化を一つの丼に凝縮したものがラーメン」だなんていうような解説をしていたけど、はっきり言って放り込んだだけにしか見えないのです。
見た目も散らかっているし、丼の縁にははねたスープと油がべっとりとついている。
料理人の手つきを見ても、とても人の口に入る食べ物を扱うような丁寧さが感じられない。
まぁそんな細かいことは、直接的に味には影響がないことなのかもしれませんが、本当は、そういう見えない所にまで気を配る繊細さこそが、「日本の心」なんじゃないのかなぁ、なんて思うのです。
ただ一人、和食の料理人として長年活躍した後、ラーメン店をオープンしたという外国人の人が出ていましたが、その人はやはり別格のようでした。
ただ丼にスープを注ぐだけでも、その動作がとてもしなやかなのです。
トッピングのネギをつまむ指先の動きも繊細で、やはりこうしたことは、形を真似ただけでは決して身に付かないものなんですね。
「身」に付けるためには、やはりその体でもって、長い時間をかけてしみ込ませなければいけない。
しかも、その内にある見えない所にまで精通するためには、かなりじっくりと奥深くまでしみ込ませなければならないのだと思うんです。
以前誰かに聞いた話ですが、多くの日本人は中高生のうちに習う程度の英語が理解できても、「私は英語ができる」とは言わないそうです。
ところがアメリカ人には、「コンニチハ」「アリガトウ」を知っているだけで「私は日本語が話せる」という人も多いそうです。
そういえば、日本人を見ると「スシ」「テンプラ」などと口走る人も実際いますよね。
話を戻しますと、これは文化の違いなどの背景もあってのことですから、別にそういうアメリカ人の気質がいいとか悪いとかいう問題ではないと思うんです。
それでもやはり、日本人の間にも、同じような感覚が広がりつつあるような気がして、それはちょっと残念だなぁ、なんて思うんです。
以前、何かの映像で、外国の人による『SEITAI』というものを見たことがあります。
その映像の中では、東洋風のBGMをバックに、作務衣姿の「SEITAI master」が活元運動らしきことをやっていました。
だけどそれは、とても活元運動が「身について」いる人の動きとはとても思えないものでした。
いや、それ以前に全く別ものの運動で、おそらくそのSEITAI masterは、又聞き程度の知識や経験しかないのでしょう。
整体の技術っぽいこともやっていましたが、日本の整体操法とは全く別もののようです。
はっきり言って、ちょっと習ったことのあるマッサージ、というような感じです。
こんなことを堂々と映像化し、世に出しているのですから驚きです。
もちろん、海外にもしっかりと修行を積んで、経験豊富な本物の「SEITAI master」は数多くいらっしゃることでしょう。
しかし一方で、「コンニチハ」「アリガトウ」程度のものもある、まぁ100歩譲って、外国の人だからそういうのも仕方ないなぁ・・・とも思うのですが、残念ながら日本国内にも、そういうものはあるようです。
「日本の心」とか「心遣い」とか、あるいは「職人の魂」とか、そういう見えないものって、見えないからこそ、いくらでもねつ造できてしまうわけです。
「真心こめた家作り」とか、「感謝を込めたおもてなし」とか、いくらでも言えちゃうわけです。
だけどその「心」っていうやつは、本当は、ちゃんと形に表れるものだと私は思うんです。
しかも、表そうと思っていない、何気ない仕草や言葉の行間などに。
たとえばネギを盛る職人さんの手つきだったり、背骨を調べるそのファーストタッチだったり。
やはりそういうものは、その人の奥までしみ込んで、そしてこんどは滲み出るくらいに、じっくりと身につけないといけないものなんだと思います。