注意の欲求と気・心・体

体と心の話

人間には様々な本能の欲求があります。

食べることや眠ること、この欲求がなければ生きていくことはできません。

子孫を育てることも、恋愛も本能の欲求と言えるでしょう。

 

他にも物やお金、地位や名誉に対する欲求など、様々なものがありますが、もっと根本にある欲求として「注意の欲求」があります。

食べることや眠ることはそれが出来れば満たされますし、物やお金、地位などは与えられれば満たされますが、「注意の欲求」については目に見えないものだけに、分かりにくいものです。

簡単に言えば「気を惹く」ことを求めるということです。「心を向けてもらう」ことです。

 

注意の欲求は誰にでもありますし、幾つになってもありますが、幼い子供は特に親の気をひくことに必死です。

自分では食事もできないし、暑さ寒さも凌げない、親の注意が向けられていなければ生きていくことさえできないのだから当然です。

しかし実際には、食事の世話や身の回りの世話だけを機械的にしていても、注意の欲求は満たされることがありません。

育児書通りに完璧にこなしたとしても、それは育児書に注意が向いているのであって、子供に注意が向いているのではないのです。

赤ちゃんがどのタイミングで、どれだけのお乳を必要としているのか、何故泣いているのか、・・・それは赤ちゃんに心が向いていないとわかりません。

過剰に教育熱心なのも、その教育法に注意が向いているのです。或いは、親自身の理想に注意が向いているだけなのです。

 

注意が向けられていないことを感じると、子供は必死で訴えます。

大声で泣いて、自分の存在をアピールします。

それでも欲求を果たせないと今度は泣くのをあきらめ、よく病気や怪我をしたり、わざと親の嫌がること、迷惑をかけるようなことをするようになります。

 

このことは、我々大人にもあることなのです。

さすがに親の気をひくためではありませんが、周囲へのアピールとして病気や迷惑な行為を行ってしまうこともあるのです。

大人の場合は少々複雑で、いつの間にか自分にまでアピールしてしまう、自分を被害者として演出する方向にまで行ってしまうのです。

しかし本人は、「迷惑をかけて気をひこう」などと考えてやっている訳ではありません。

自分でも理由など分からず、つい、やってしまうのです。

だから「何故こんなことをするの!」と言われても、答えようがありません。

もう一歩踏み込んで、「何か不安なことでもあるの」と言われても、それも分からないのです。

 

注意を向けることと、心配することは別物です。

心配は、心配する側の心の中で起こることです。

その心配を拭うために行うことは、相手にとっては重荷になってしまうことさえあります。

注意を向けることとは、相手に対して「こうであって欲しい」「こうなって欲しい」という、こちら側の要望を伝えることではなく、ただその姿を見て、感じることです。

こちらから働きかけるものではありません。

 

このことは整体でいう「愉気」と全く同じ事だと当塾では考えています。

相手の体に触れて、「早く良くなって欲しい」と念じるのでもなく、ましてや”気“を送るのでもなく、ただ手で触れた感じや相手の呼吸のリズムなどを感じているだけです。

その感じを評価するのでなく、ただ味わうように感じるのです。

そうしているうちに相手の体や心が解けて、結果的に良くなるのです。

 

相手を味わうように感じるだけなら、手を触れなくてもできます。

映画や音楽に浸る時のように相手の姿、声などを感じ、浸ってみることです。

目の前にいない人でも、その面影を味わうことはできます。

 

こうした行為が現実に変化をもたらすには、少々時間を要することがあります。

なぜならそれは意志を伝える物ではないからです。

相手の心の奥(潜在意識)に少しずつ染み込むように伝わっていくからです。

しかしそれがやがて意識や体の変化となって表面化してきます。

途中で辞めてしまっては分からないままです。

 

心を込めた料理とそうでないものは、何となく美味しさが違うはずです。

心のこもったプレゼントと、義理で形式的に送られたものでは受け取った時の喜びが何故か違います。

同じように、心を向けられていることも、どこかでちゃんと感じられているのです。

愉気は離れた場所でもできるのです。

ぜひ、実際にやってみてください。

 

愉気法の実践的手当ての方法は、DVDにて解説しています

 

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