随分前に、知り合いの方のお宅に招待されたときのこと。
その方のお宅には何台ものエレキギターとエレキベースが置いてありました。
その家のご主人のコレクションなんですが、よく見るとそれは、なかなか質のよい高価なものばかりでした。
ところが奥様は楽器のことなど全然興味もなく、「こんな同じものばかり買って、何が楽しいんでしょうねぇ」なんてぼやいています。
もちろん旦那さんにしてみれば、同じものなんて一つも買ったつもりはありません。
似たような形をしたギターでも、全く音質が違います。
というより、よく見れば形もあまり似ていなくて、随分違うんです。
激しいロックを弾くのに使うギターとか、ジャズを弾くのに合うギターとか・・・用途もかなり違います。
それ以前に、ベースとギターでは全く別の楽器です。
弦の数も違うし、大きさも違います。
しかし全く興味も知識もない人からみれば、それすらも一緒に見えてしまう。
自宅で毎日見ているはずなのに・・・
知らない、興味のない人の観察眼なんていうのは、その程度でしかありません。
・・・楽器の話はまぁ、その人の趣味の問題ですからいいんですが、人の個性とか価値観の違いとなると、興味の有無にかかわらず、だれもが関わりを持たざるを得ない問題です。
家族同士、職場の同僚同士、ご近所付き合いなど、私達は自分とは全く違う感性を持った人達との関わりを持ちながら生きていかなければなりません。
兄弟や親子でさえ、全く違った感性を持っています。
これは生まれつき持っているものです。
だから同じ育て方をしても、それぞれ違う人間に育っていきます。
親が経験して来たことを、そのまま子どもに教えたとしても、親と同じようにはなりません。
「私はできたのに、なぜこの子は出来ないのかしら?」なんて思うのは、違いというものを全く分かっていないからなんじゃないでしょうか。
しかし最近では、「個性が大事だ」ということが随分言われるようになっては来ていると思います。
「みんな違ってていい」とか、「ありのままでいい」とか、そういう言葉もよく耳にするようになりました。
いろんな本に書いてあります。
子育ての本とか、自己啓発の本とか。
でもその「違い」をよくわからないまま「違ってていい」「そのままでいい」なんて言っていませんか?・・・なんていうことも思うんですよ。
また楽器のたとえに戻りますが、ギターとベースの違いも分からない人に、「それぞれ好きな楽器を持てばいいんですよ」と言われても、何か今ひとつ心に響かないのと同じです。
しかし楽器好きの人は、
「このギターは、フロントピックアップで高音強めにして、軽く歪ませてカッティングすると、厚みがあるけど切れ味のいい音が出ますよね~!」
なんて言われると、
「おーっ!分かります? この音が好きなんですよー」
なんて大喜びしちゃうわけです。
ちょっと極端な例でしたけど、他のギターとの違いとか、そのギターならではの持ち味とか、このギターでなければならない理由とか・・・
つまりそのギターの「個」を本当に分かってもらえると、持ち主としてはとても嬉しいし、そのギターにより一層愛着もわくでしょう。
それを分かってあげるためには当然、ある程度、ギターの種類に関する知識を持っていなければなりません。
世の中にはどんな種類のギターがあって、それぞれどんな音が出て、それぞれどんなジャンルに向いているギターで・・・というように。
人の個性を認めるというのも同じです。
世の中にはどんなタイプの人間がいて、それぞれどんな個性を持っているのか、どんなことが得意で、どんなことを苦手とするのか・・・
そういうことをある程度知っていないと、本当の意味で「違っていてもいい」「そのままでいい」なんて言ってもピンと来ません。
ただ何となく「違っていていい」「そのままでいい」なんていうのは、むしろ無責任で軽い言葉にしか聞こえません。
最近特に、占いに夢中になる人が多いですよね。
家族や友人よりも、占い師の言う事しか信用しないなんていう人もいます。
なぜそのようになってしまうかというと、それは占い師が、他の人には分からないことを言い当てるからです。
まぁ実際は様々なテクニックで当っていると思わせている、ということが多いわけですが・・・
ともかく「自分にしかないもの」「他人に分かってもらえないところ」を捉えられると、人はその心を大きく傾けるようになります。
本当の意味で「個性を理解する」というのは、そういうことなんだと思います。
ただ分かろうと「心がけるだけ」ではダメで、気持ちの問題だけではやはりダメで、
やはりそこにはある程度の「知識」が必要なんだと思います。
当塾が『心の癖・体の癖』(体癖論)というものを大切にしているのは、そのためです。
知っているのとしらないのとでは、人の見方が全く変わります。