学生の頃、先生に「解らないことがあったら、すぐに聞きなさい」とか、「解らないままにしておかないように」なんて注意された覚えがあります。
テストで実力が測られる程度の学校の授業ならば、そういうものかもしれません。
解らないことを尋ねれば、あとは言われた通りに覚えておけばいい、テストの時にはその通りに書いておけば正解がもらえる。
余計なアレンジなど加える必要もないばかりか、そういう余計なことは考えないほうが無難・・・
だけど勉強っていうのは、本来そういうものじゃないと思うんですよね。
そもそも、人に尋ねてすぐに返ってきた答えなんて、大して深みもないと思うんです。
少なくともその場では。
いや仮に、その答えてくれた人が、もの凄い深い答えを提示してくれたとしても、それを一瞬で本当に理解することなんて、出来る筈もありません。
その答えを、その後自分の経験というフィルターにしっかりと通して、時間をかけて解っていくものでしょう。
だから返ってきた答えを答えとして、そこで解った気になってしまうことが、一番良くないことだと思うんです。
つまり答えなんていうのは、あって無いようなものなんじゃないでしょうか。
結局は自分で作っていくしかない。
その答えが出来上がるまでは、つまり「解らない期間」が続いていくわけです。
逆に言えば、解らない期間がなければ、答えは決して出来上がりません。
だけど、「解らない」ということに耐えられない人って、結構多いんですね。
何でもすぐに答えを提示してもらわないと、不安で仕方がない。
だからよく質問をするし、周りから見れば、勉強熱心に見えます。
でも結局そういう人たちは、自分の答えなんて持っていないのです。
自分で気づいて、築いて、作り上げてきた確固たる答えを持っていない、つまりそれは「信念」というものがないのです。
偉い人(と思える人)からもらった答えを信じて、それを「信念」なんて言っている人を見ると違和感を感じてしまいますが、偉い人からもらった答えだから、安心なのでしょう。
誰に見せても恥ずかしくない答えなんでしょう。
同じ答えを持っている人は他にも大勢いるはずだから。
・・・っていうか、そういう人にとって「答え」というものは、「他の人から見ても間違っていないこと、恥ずかしくないこと」っていうものなんでしょうね。
だけど、仮に人に笑われても、誰も賛同してくれなくても持っているもの、それが信念っていうやつなんじゃないでしょうかね?
そんな強い信念が育つまで、答えの解らないことにぶつかって、迷って・・・そんな不安定な日々をすごしていきたい、と私は思います。