焦っている時にはつい早口になってしまったり、自信がない時には目が泳いでしまったり、必死の時には余計に力が入ってしまったりと、心の中の動きというものは、必ず体で表現されるものです。
自分では全く意識していなくても、また、他の人に気づかれることがなかったとしても、よく観察してみると、やはりそれは表れています。
そしてまた、普段、平常心の状態でいる時でさえ、その人の心の癖といいましょうか、無意識の中にある不安とか、こだわりとか、そういったものが体に表れてしまうものです。
このことは、整体を行う側としても、とても重要な問題です。
整体操法が『手技』である以上、やはりその手には、その人の内面が表れてしまいます。
必死に「治そう」とすればするほど、いや、本人には必死なつもりなどなかったとしても、そういう心があれば、どうしても腕に余分な力が入ってしまうものです。
あるいは、「結果を出さなければ、評判が悪くなってしまう」という不安があれば、それもまた余分な力を入れてしまったり、やたらと手数だけが増えてしまったり、というようなことに繋がってしまいます。
よく『治療』を生業としている人が整体を習いに来た時に感じるのが、そういった感じの力の入れ過ぎです。
「治してやらなければ」という思いが表れたような「力み」です。
「症状があることは悪いことだ」、という考えの強さがその背景にあるのでしょう。
そういった思いを決して批判するつもりはありませんが、しかし、当塾の考える整体というのは、『治療』ではないんです。
このことは今までにもいろんな所で発言していますが、体を治すのは、本人の力でしかありません。
その力を発揮させる手伝いをするのが整体です。
手伝いをしすぎれば、本人の力は怠けてしまい、弱くなります。
本当ならば、必要最低限の手伝いのほうがいい。
そしてまた、症状そのものが、その人の体を丈夫にしていくプロセスでもありますから、それを静観できる余裕も必要になってきます。
ともかくその手には、こうした内面的な背景がどうしても表れてくるのです。
仮に同じ圧力で同じ場所を押さえたとしても、印象が違ってきてしまいます。
だからこうした内面的なことは、まず整体を行う施術者自身が、体験を通して培っていかなければならないことなんだと私は思っています。
それは精神修行とか、瞑想とかいった非日常的なことで得られるものではありません。
「そういう訓練を受けたから大丈夫だ」なんていう、何かの『認定』があって得られるものではありません。
自分自身の病気や怪我とか、その他日常生活の中での様々な難問を、自分の体や心の力を主体として乗り切っていくことでしか、培われないことだと思うんです。
日常生活の中に、そのための材料はいくらでもあるはずです。
そうして「自然治癒力」だの、「痛みにも意味がある」だのといった言葉だけの世界ではなくて、その人の中に本当の心身への信頼ができてこそ、その手も磨かれてくるものなんだと思うんです。
手先の技術や知識だけ身にまとってもダメ、その人自身のありかたが問われる世界なんだと、私は感じています。
このことは、心理的な指導の面でも全く同じです。
いくら言葉だけで「自分らしさが大事」とか、「あきらめちゃダメだ」と言ったところで、その人自身がそういう人でなければ、全く響きません。
その人が、本当に自分らしく、やりたいことをやってみて、そしてその結果、周りから白い目で見られ、それに耐えながらもやって来た・・・そんな経験をしてきてこそ、言葉が磨かれてくるものでしょう。
ともかく言葉にしろ、整体などの技術にしろ、教科書やセミナーでそれらを習って、ロールプレイを繰り返したところで、決して血が通うことはないでしょう。
普段の生活の中で自分を磨いてこそ、それらは生きてくるものだと思います。