自分に至らない点はないだろうか、間違ったことをしていないだろうか、他人から悪く思われないだろうか・・・?
そういうことは誰でもある程度気になるものです。
かといって、完璧に至っている人など一人もいないし、間違いのない人、誰からも悪く思われたことのない人など、おそらく一人もいないと思うのです。
むしろ、至らないからこそ伸びるのだし、間違いを犯したり迷惑をかけたりすることから反省するはずです。
それは理屈ではなくて、実際に「未熟だった」「失敗してしまった」という経験を、体で感じ、「痛感」してこそわき起こる向上心なのではないでしょうか。
ところがどういうわけか、その失敗を避けようとして、先回りしてあれこれ憂慮し、備えることばかりに一生懸命な人がいます。
間違わないように、至らない点のないように、常に気を張って出来る限りのシュミレーションをし、二重にも三重にも対策を講じ、それでも安心できずに頭の中が一杯になっています。
そもそも、まだ起こってもいないことに安心できるはずなどないのです。
どんなに頭の中で先回りしても、結果は分かりません。
100通りの対策を練っても、自分にとっての100%が全体の30%でしかないかもしれません。
そう考えていくと、きりがないのです。
きりのないことに一生懸命頭を使い、頭が重くなって疲れているだけなのです。
そのような無駄働きは、いっそのことやめてしまったほうがいい。
どうせ「失敗」というものは、全て「想定外」のものなのですから。
そして想定外の失敗だからこそ、その失敗から新たな経験が得られるのです。
こういうことは、健康法などにも言えることで、常に間違った食事はしていないか、間違った生活をしていないか、と気を張っている人がいます。
気を張りすぎると、体はちょっとした誤りにも反応してしまうようになります。
たとえば、「白砂糖を使ったものを食べると病気になる」という考えを強く持ち、絶対に食べないようにしている人がいたとします。
その人がたまたまミスをして、白砂糖入りのお菓子を一口だけ食べてしまっただけで、急に具合が悪くなってしまうということがあるのです。
急に吐き気がしてきたり、蕁麻疹が出たり・・・そしてその人はさらに信念を強めます。
「白砂糖というものは、こんなにも体に悪いものなんだ」「現代人はこんなに体に悪いものを平気で食べられる程、体が鈍っているのだ」と。
しかし、たった一口のお菓子に含まれる白砂糖ぐらいで壊れるほど、人の体は弱くないのです。
白砂糖が体によくないものだったとしても、健康な人なら知らないうちに排泄してしまうのです。
その程度で極端な拒絶反応を示すということは、むしろ体が非常に弱っている人か、神経が過敏になりすぎているかのどちらかです。
過敏になってくると、さらに間違うことが恐くて、常に気を張って過ごすようになっていきます。
気を張りすぎるあまりに、ますます過敏になるという悪循環も起こりかねません。
さらには、より完璧を目指して、隙のないほどに知識で頭を一杯にする人がいます。
その人にとって知識は盾のようなものなのです。
これだけ正しい知識を持っていれば大丈夫だ、と自分を守っているのです。
「私は間違っていません」と、自分自身に言い聞かせるために防護壁で周りを囲っているのです。
自分を安心させるために必死なのです。
だけど、「安心」というものは本来「必死」とは反対に位置するべきものではないでしょうか?
次々と不安要素を探してきては、それをしらみつぶしに消していくという努力で得られるものではないはずです。
安心とは、「信頼」とともにあるものなのではないでしょうか?
多少失敗しても、それをリカバリーできるのが健康な体・心というものです。
リカバリーだけではなく、その失敗を成長のための栄養分とする能力さえ持っているのです。
そのことをよく認識し、感謝し、自らの心身を信頼することが、一番の健康法といえるのではないでしょうか