随分昔お世話になった人に、「理論や技術を学ぶということは、一つ責任を背負うことだ」と諭されたことがあります。
とても印象的な言葉として今も心の中に残っています。
理論も技術も、それは人生を、そして自分がかかわる社会を豊かにするために本来あるべきです。
それはその社会の中で、一つの役割を背負うということでもあります。
しかしいっぽうでは、理論や技術は使い方を誤ると、自分にも他人にも危害を加えることにもなりかねません。
だからこそ、それらを身につける際にはしっかりとした「心構え」と、簡単ではない訓練や修行期間が必要なんだと思います。
たとえば、整体法における「体癖」という理論。
残念なことに、これも使い方を誤りやすい理論の一つだと思うのです。
「人間をいくつかのタイプに分ける」という考え方は、一つ間違うと人を差別することにつながりかねません。
「どうせAさんは□□タイプだから、私の言っていることは分からないだろうな」などと言って避けるのは、これはある意味差別でしょう。
体癖論というものを知った人がとるべき態度は、タイプの違うAさんにどうすれば伝わるのか、を真剣に考えることなのではないでしょうか?
「私は◯◯のタイプだから、この仕事はできなくていいや」という考えはいい訳であり、逃げであるといえるでしょう。
◯◯タイプの自分ならどうやってこの仕事をこなせばいいのか、まずはそれを考えるのが体癖論を学んだ人の責任だと思うのです。
理論を「知っている」ということはそういうことです。
知らない人よりも、その理論を通すことによって、もう一歩深い考えができること。
体癖論はそもそも、人間には生まれ持った違いがある、ということをより具体的に示すために、類型を明確にしたたものです。
これを社会でどう活かすかということは、違う者同士を対立させることでも、違う者同士を避けあうことでもないはずです。
違う者同士が、どう理解しあって、あるいは譲り合って共存していくか、ということではないでしょうか?
学ぶ、知る、身につける、ということは、そういうことだと思うのです。
もちろん体癖論に限った話ではありませんが、ただ、体癖論については、これが人の悪口や不平不満、言い訳の材料とされていることを時々見かけるので、特に注意したいところであります。
※心の癖・体の癖(体癖)については『心の癖・体の癖』PDFテキストでさらに詳しく説明しています。。