誰にでも時には、他人の何気ない言葉に傷ついてしまったり、気力をなくしてしまうことがあります。
しかし、頻繁に「傷ついた」「やる気をなくした」と言っている人に、よく理解して頂きたいことがあります。
本当は、人の心は、他人に振り回される程、軽いものではないということです。
心の持ち主は、まぎれもなく自分自身であるはずだからです。
自分がハンドルを握り、アクセルやブレーキを操作し、自分で設定したナビに沿って動いて行くものだからです。
他人がそれに横やりを入れたからといって、簡単に変わってしまうものではないのです。
もし、他人の言葉や行為によって壊れたり歪んだりしたというのなら、それはその他人の言葉や行為を、自分自身で受け入れて、その方向にハンドルを切ってしまったからです。
他人が、助手席から直接ハンドルやアクセルを操作することはできません。
必ず自分自身を通さなければ、自分の心にアクセスできないようになっているのです。
従って、「他人の言葉に傷ついた」と言っている人は、「自分がその言葉を呑み込んだ」と言っているのと同じだと言うことです。
つまり、自分への批判を聞いて傷ついたと言っている人は、「その批判を認めた」と言っているのと同じです。
「他人の言動のせいで自分の価値を見失った」と言っている人も、本当は自分で自分の価値を見失ってしまっているだけなんです。
「他人の言動のせいで希望をなくした」と言っている人も、自ら希望を捨てているんです、本当は。
それを他人のせいにして、自分をも騙しているんです。
自分のせいではない、他人のせいだと。
だから自分は落ち込んでもいいんだ、わざわざ立ち上がらなくてもいいんだと。
傷つくことに慣れた人は、そのうち「言葉狩り」を始めるのです。
「あの言葉に傷ついた」「あの言い方に傷ついた」「あの態度に傷ついた」と、自分を傷つけるものに過敏になっていきます。
そうしてやがて、庇われることを覚えていく。
「繊細」だとか「純粋」だとか、奇麗な言葉で自分を着飾っているけれど、そうやって荒波から逃れることを癖にしてしまっているのです。
そうなると、自分を正しい方向に導く力さえなくなってしまいます。
ハンドルもアクセルもブレーキも、手放してしまっているからです。
他人の言動は、あくまでも他人のものです。
自分の外側で発生し、他人が勝手に発信しているものにすぎません。
そういうものにいちいち反応して、何かアクションを起こすまでもなく、変わらず自分のハンドルを握りしめていけばいいんです。
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