以前、ある病気で倒れた人が、「今まで、がむしゃらに働いてきた。その無理がたたったんだろう」と自己分析していました。
きっと本人としては、仕事が生き甲斐だとも感じていたのだろうし、自分が生きていることの証であったり、自分の価値であったり、そう感じていたのだと思います。
そのせいでつい頑張り過ぎて、体に負担をかけ続けてしまい、長年の疲労がたまって病気になってしまったんだろう、という自覚があるのだそうです。
しかし私は、「正確には、ちょっと違うんじゃないか?」と思ったのです。
ちなみに、「がむしゃら」とは漢字で「我武者ら」と書くそうですが、その語源にはいくつかの説があるそうです。
一つは、我の強い武士(武者)のような様、という説。
他には「我無性(がむしょう)」が訛ったという説などです。
前者は我が強く、後者は我が無い。
正反対のようですが、我が強い人というのは、決して自分がしっかりしているというわけではないですよね。
むしろ自分さえもコントロールできなくなっているような人のことを、「我が強い」と言うのではないでしょうか。
そういう意味では、我が無くなっているのと同じようなものです。
いずれにしても、「がむしゃら」というのは、コントロール不能な状態と言っていいかもしれません。
暴走列車のようなもので、ブレーキもハンドルも効かない状態で突っ走ってしまっているのです。
がむしゃらに頑張ってきた人の多くは、自分の意志で、自分がそうしたくて頑張ってきたと思っているものです。
家族のために頑張っているとか、社会に貢献するために頑張っているという人もいますが、そのこと自体も、自分でそうするのだと選択したのだ、と思っているはずです。
しかし、それ自体が本当は違うと、自分の選択ではないと、私は思うんです。
それが自分のためであれ、家族のためであれ、社会のためであれ、がむしゃらに頑張っている人というのは、「そうしなければいけない」「そうすることが正しい」と思い込んでいる人なのではないでしょうか。
さらに一歩突っ込むと、「がむしゃらに頑張ることで、やっと認めてもらえる」とか、「家族や社会のために、我を忘れて、無理をしてでも頑張ることが、立派な人間の証だ」と。
ちょっと複雑な話ですが、「家族のために無理してでも頑張っているところを見せることが、家族のためになる」とか、「社会のために自分を犠牲にしているところを見せることで、社会が認めてくれる」とか・・・
そのような複雑な心理が裏で働いているんです。
つまり、価値の基準が、自分以外のところにあるんです。
根底に「どうすれば家族に、社会に、自分が認めてもらえるのか?」という課題があるのです。
常に判断基準が自分以外の所にあるのですから、自分では全くコントロールができません。
だから、ブレーキもハンドルも効かない、ただただ突っ走るだけの暴走列車なのです。
暴走列車が止まるためには、脱線するなり、どこかにぶつかるなり、そういう「事故」を起こすしかありません。
体は、心は、そういう選択をして、暴走を止めようとするのです。
単に過労で体が疲れただけでなく・・・もちろん体も疲れてはいるのですが、その暴走を止めようとする手段の一つが病気です。
なので病気になったら、それが大きな病気ならば尚更、冷静に、自分自身の本当の目で、本当の「我」を見つめ直し、取り戻しにかかるべきなのではないでしょうか。
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