最近、子どもの心(潜在意識)について書かれた本を読んでいます。
そういう本を読んでいると、そしてその本が共感できる内容であればあるほど、私は子どもの頃の自分の心の中を、そしてそのまま大きくなっていった自分のその後の姿を思い出してしまうのです。
ただそれは、客観的に思い出す感じであって、感情に呑まれてしまう程ではないのですが・・・。
私は、比較的おとなしい性格の子どもでした。
小学校・中学校でも割と真面目なタイプだったし、特別目立って悪い事をした覚えもありません。
でもそれは、何か問題を起こした時の、母親の青ざめて引きつった顔、父親の不機嫌な態度を見るのが恐かったから、なんですね。
まぁ、どこの家庭でもそんなものかもしれませんが、何故か私はそんな両親の様子に対して、かなり神経質だったようです。
だから、できるだけ親に心配をかけないように、親の機嫌を損ねないように、無意識のうちにそんなことに気を配りながら、日々を過ごしていたのでしょう。
改めて考えてみると、窮屈な生活ですよね。
でも、子どもだった私には選択肢などありませんし、これが普通だと思っていたのでしょう。
もちろん「普通だ」という認識すらしていなかった、当たり前の事として、全く自覚のないまま、当たり前に気を使っていたわけです。
だからいつも、どういう態度を取れば親が安心してくれるか、何を選択すれば親は喜んでもらえるか、どういうことを言えば親は快く受け入れてくれるのか・・・
それが常に、私の選択の基準だったのです。
極端に言えば、「好きな食べ物は何?」と問われた時、何と答えれば親を満足させられるか。
「将来の夢は?」と聞かれて、何と答えれば喜んでもらえるのか。
どの高校に行けば、親にとって一番負担がなく、安心してもらえるのか。
もちろん親から直接、そういう答え方、選択の仕方を強要された覚えも無いんです。
両親も当然、そんなふうに「仕向けた」つもりなど全くないでしょう。
だけど、私にはそんな癖がついてしまっていました。
親だけではなく、周りの人、相手の人に受け入れられる答えであること、これが私の判断基準となっていました。
だから、友達との付き合いでも、友達に嫌われないキャラクターであること。
服を買う時も、周りの人たちに馬鹿にされないようなものを選ぶこと。
車を買う時も、同世代の人に格好悪いと思われない車種にすること。
そんな中で、私は自分の本当の好みとか、本当の自分の夢とか、信念とか、そんなものを失っていきました。
失っているつもりなど無かったんですが、振り返ってみるとそうでした。
自分の信念であると思っていたものも、所詮自分の中から生まれたものではなく、誰かの受け売りでしかありませんでした。
・・・そんなふうに窮屈に思える心の癖も、裏を返せば、それは他人に寄りかかって安心している、ということも言えるんです。
ともかく周りの人に認められる正解さえ出していれば、それで大丈夫なわけです。
決まったこと、規則やマニュアルを守っていれば、「優等生」として立場が保証されるわけですから。
仮に、規則通りにやっていたのにうまくいかなかったのであれば、その規則が間違っていたということになります。
自分は悪くありません。
自分は責任を負わずに済む、罪の意識を持つ必要もない。
ただそのためには、規則は完璧に遵守していることが条件になります。
だからいつの間にか、完璧主義になっていきます。
思えば私は、「自分に厳しい」と思えるようなところもありました。
仕事でもなんでも、ミスをすることが大嫌いだったし、計画を崩されることも大嫌いでした。
その点では、いつの間にか他人にも厳しくなっていました。
だけどそれらは、規則を外れてしまうことが恐かっただけなんですね。
そして、マニュアル化されていない事が恐くて仕方がなかった。
だから、新しい事をやるということがとても恐かったし、そうしようとする人のことを許せなかったのです。
こういうタイプの人は、周りからみると、とても真面目で、計画的で、知的で立派な人に見えることもあります。
それに、相手の望む答えに合わせることが上手になっていますから、素直な人、気が利く…というように思われることもあります。
でも実際には、その内側では、いつも失敗におびえ、必死に正解を出していただけなんです。
そういう姿勢は、時には自分だけでなく、周りの人まで締め付けて窮屈にしてしまうことがあります。
自分自身でも、無意識のうちに、自覚のないうちに、その締め付けに息苦しくなって、心身のバランスを崩してしまうことがあります。
そんな自分や他者への『締め付け』を解き放すのは、決して簡単なことではありません。
規則という『鎧』を手放すようなものですから、不安で仕方ありません。
だけど少しずつでも、時には失敗を経験しながら、時には擦り傷を作りながらでも、自らの心の『地肌』をさらしていかなければ、本当の自分は丈夫になっていきません。
そうやって自分を育てて行くことが、本当の意味での自立であり、そしてそこから、「自発性」が育ってくると思うんです。