体や心を本当に丈夫にしていくか、それともどんどん弱くさせていくか・・・
その分かれ道は、結局のところ、全てを自分の内側の問題とするか、外側の問題とするか、だと思うんです。
何かがあったときに、その出来事を自分自身の内側に起因するものと捉えられるか、それとも「あれが悪い、これが悪い」と周りのせいにするか。
昨今は後者のほうを選択している人が「安全に気を配る正しい姿勢だ」とさえされている傾向があるような気もします。
だけど、あれが悪い、これのせいだ!・・・と言いながら、そのあれやこれやに怯えながら、小さくなって生きている人がいます。
やがて、そのあれやこれやに過敏に反応し、ちょっと悪いものを食べたり、ちょっと悪い空気に触れたり、ちょっと嫌なことを人に言われた程度で、体や心を病んでしまう。
これで本当に「安全」に気を配っていると言えるのかどうか、はなはだ疑問ではありますが、そういう人はまた、「安全ではない環境」を責めることに躍起になるのでしょう。
「自分に起因するもの」と捉える姿勢は、とても厳しく、そして時には理不尽なことのように思えるかもしれません。
だけどそうする人は、自分を全ての出来事に中心に置いている、ということなんです。
全ての出来事が自分の内側の問題であるならば、それらは全て自分で変えていくことができる。
コントロールすることができる。
つまり、自分で自分の舵取りをきちんと出来る、ということなんです。
ところが、外側の問題にする人は、その外にあるあれこれに振り回されるばかり。
そして周りが変わらない限り、自分は変わる事ができないわけです。
それではいつまで経っても安心・安全など訪れはしないでしょう。
周り次第で生きていれば、自分の中に「信念」などが芽生えることもなく、心も、そして体も丈夫にはなりません。
ただただ刺激に弱い体や心になっていくばかりでしょう。
だけども一番厄介なのが、「自分の内側を見つめる」と言いながら、「内側で繋がる天の声」とか、「生まれてくる前の自分の魂」とか、そういうものばかりを見ようとしている人。
こういう人は、今現実に見えない自分とか、それとも異次元(?)の自分とか、そういう所ばかり見ているものだから、現実の自分が変わらないんですね。
だから体への刺激や言葉が、うまくその人に響いていかないんです。
暖簾に腕押しというか、空中に刺激や言葉を放っているかのような、そういう感覚すら覚える事があります。
自分を見るということは、今、現実にここにある自分の実体を感じる、ということです。
そして、「自分が変わる」ということは、その実体に変化が起こることです。
たとえ考え方が変わっても、体や行動に変化が現れないのなら、それは本物の変化とは言えないでしょう。
だけど本当に変わった人は、いままでどんな医師や治療家の手を借りても治らなかった病気が治ってしまう位、大きな変化が体にも訪れます。
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