個人的な話になりますが、10代の頃のある日の出来事です。
その日は法事か何かで親戚一同が家に集まってきていました。その日の昼過ぎ、自室で昼寝をしていた時のことです。
途中で目が覚めて、起きて皆が集まっている隣の部屋に顔を出そうと思ったのですが、その部屋からは私のうわさ話が聞こえてきていて、出て行くに行けなくなってしまいました。
そのうわさ話というのは、まぁ、はっきり言って、ほとんど悪口でした。
「あいつはダメだね、頼りない奴だ。」
口の悪い叔父が一人いるんですが、私の名をあげてそう言っていました。
するとすかさず、叔母が
「そうそう、あの子はなんかダメだね。頼りなくて。」
そうやって同調していました。
すると叔父は、こんどは私の兄の名前を挙げて、
「あいつは面白いよ、将来楽しみだね」
と言い、叔母もまた、それに同意していました。
その話が一通り落ち着いたころ、何事もなかったように私は皆のいる部屋へ入っていったのですが、当然心の中は深く傷ついていました(笑)
このことは、こうして今でもはっきり覚えているくらいにショックな出来事でした。
それでもその後、私が体や心のことを学び、特に「体癖」を学んだ時に、かなり胸がスッキリしたというか、このショックな体験を整理することが出来ました。
簡単に言うと、その叔父と叔母は、同じような価値観を持っている、同じタイプ(体癖)の人間である、ということです。
そして兄も、同じようなタイプです。
なので、行動パターンも、喋り方とかリズムとか、考え方とかも、叔父、叔母、兄は似通っているのです。
だから話していても噛み合うし、叔父や叔母から見れば、兄の様子は若い頃の自分に共通するものがあるのです。
具体的に言えば、捻れ型・7種です。
いっぽう、私は「上下型」です。
口数も少ないし、会話のテンポもマッタリしている。
動作も遅いし、声も小さい、大人しいおっとりタイプ。
上下型の人間は、捻れ型の人から見ると実に物足りなく、頼りなく感じるのです。
だけどそれは捻れ型の人の感性という、限定された枠を通して見ればの話であって、決して上下型が本当に頼りないわけでもありません。
でも当時はそんなことは知りませんから、「自分は頼りなくてつまらない人間で、家族・親戚一同にそう思われているんだ」と感じてしまったわけです。
身近な家族・親戚一同に思われているということは、世の中全体にそう思われるような人間なんだろう、と勘違いしていしまうわけです。
しかもこのことは、この時だけの問題ではないと思うんです。
というのは、その日叔父や叔母が私のことを悪く言っていることを、私はどこか納得していたというか、「やっぱりな」という思いで聞いていたのです。
つまり普段から、「あの叔父さんと叔母さんには、良く思われていないだろうな」と感じていたのです。
そう感じるようなことが、今までの付き合いのなかで何度もあったんだと思います。
そして、両親、特に父親に関しては、叔父・叔母ほど露骨ではないにしろ、同じような思いをうっすらと持っているんだろうな、ということも感じていました。
(父親は捻れ型メインではないですが、若干その傾向も持っています。)
「うっすら」だったからまだ救われたのかもしれませんが、こういうことが露骨に表れている親子も本当に数多く見かけます。
おそらくお子さんは、それで萎縮してしまっていることでしょう。
もちろんこのことは、私と叔父・叔母のように、「捻れ型」と「上下型」という間柄だけに起こることではなくて、他のタイプ同士でも同じように起こることです。
こういう違いがあるということを知らずに、どちらか一方の枠だけを通して相手を見て、良い・悪いと決めつけている。
決めつけられた方は、それで自分らしくいられなくなり、本来の自分のタイプではないタイプを演じなければ認められなくなる。
しかし、偽物の自分を演じることはとても辛いものです。
そして、必ずボロが出ます。
そのボロをまた、指摘されて非難されるのです。
これはとても苦しくみじめなことです。
「自分らしく」とか、「ありのまま」とか、「そのままの自分で」とか、そのような聞こえのいい言葉が最近よく聞かれるようになりました。
だけど本当のその人らしさ、ありのままの姿を認めるっていうことは、自分と全く違う価値観、自分の常識では考えられないような態度や言動を認めるということです。
その「違い」があるということは、ただそう思うだけではなく、具体的にどのような違いがあるのか、ある程度学ばなければわからないように思います。
心の癖・体の癖(体癖)については『心の癖・体の癖』PDFテキストでさらに詳しく説明しています。