体操をする時や整体を受ける時などに、力を抜くことが苦手な人がいます。
つい、力んでしまう、「構えてしまう」と言っていいでしょう。
「構える」ということは、抵抗する、ということと同じです。
押されれば押し返そうとしてしまう、これは体の癖として染み付いてしまったものではありますが、同時に、というよりも、ほとんどが心の癖といっていいでしょう。
力を入れるか、抜くかをコントロールするのはその人の心なのですから。
力が抜けないということは、いつも何かしら不安を抱えているのと同じような状態です。
特に具体的な問題を抱えている訳でもないのに、まるで何か心配をしていなければいけないかのように思っている人もいれば、次に起こる出来事を必ず心配から始める人もいます。
例えば、わが子が小学校に入学するとなれば、
「いじめられはしないだろうか」
「悪い先生に当たりはしないだろうか」
「落ちこぼれになりはしないだろうか」
と、まだ起こっていもいない事を心配し、うまくいかないに決まっている、未来は悪いことばかりであるかのように空想を拡げ、それだけで胃を痛めてしまう、なんていう人もいます。
どうせまだ起こっていない未来の事なんだから、逆に楽しい方向に考えることだってできます。可能性は半々なのですから、むしろ逆に考えた方が楽で楽しいのに、なぜかわざわざ悪い方を空想して、身も心も硬直させてしまうのです。
そればかりか、周りの人まで硬直させてしまうことになります。
先ほどの例でいえば、まず間違いなくその子供の心・体は硬直してしまうでしょう。
親の心配のおかげで、子供が持っている無限の可能性が制限されてしまうのです。
場合によっては逆に「いじめられっ子」「落ちこぼれ」という暗示を与えてしまう危険性もあります。
心配が強すぎる人には、明確な「答え」を強く求めるという傾向があります。
教育の心配であれば、権威のある学者とか、有名な指導者の出した答えに忠実になります。
教育熱心な人には心配性の人が多いですが、心配だから常に熱心にやらなければ気が済まないのです。
だから力が抜けなくなっているのです。
しかもその答えは自分で出したものではなくて、他人の出した答えです。
自分の答えに責任を持つなんていうことは、心配すぎてできないのでしょう。
だからできるだけ権威のある人の決めた方法や、昔からある決まりごとに当てはめようとします。
そのへんはとても頑固です。
体の力が抜けない人には、考え方を譲らない頑固な人も多いのですが、その考え方というのも、元は自分のものではなかったりします。
「頑固」というのは意思が強いかのような印象がありますが、その根底には不安があるのです。
今までの考え方を手放すのには勇気がいります。
昔からの考え方に背くのは不安なものです。
だから新しい考え方には抵抗し、押し返そうとします。
心配性も、頑固になるのも、要するに根っこは同じようなものですが、これは無意識のうちにそうしてしまうものですから、簡単に辞められることではありません。
ただ、心配や頑固には、子供達の心と体を萎縮させてしまい、無限にある可能性を閉ざしてしまうこと、本来開かれるべき才能も潰してしまうというような、大きな弊害があることも認識していなくてはなりません。
それには我々大人が、肩の力を抜いて、落ち着きのある深い息をし、頭を軽やかに、穏やかな表情を作ることができる心身を育んでいかなければなりません。